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大ゴミを宝物に変えよう #24

ゴミを宝物に変えよう #24 ゴミを宝物に変えよう #24

私にとって海は子供の頃からお金のかからない宝の宝庫でした。昔はたくさんあった桜貝が一番のお宝で、強く持つだけで崩れてしまう脆い貝殻を綺麗なまま見つけると、大事にそっと持ち帰ってガラスの瓶に入れて集めていました。

嵐の後は打ち上がってる海藻を拾って家の夕食に食べるのも楽しみでした。春には足で波打ち際をほじくり、ハマグリを見つけたりもしたものです。

中学高校生の頃になるとガラスや瀬戸物の破片が波で丸くなったものをビーチで多く見るようになり、それを拾って工作に使うようになりました。

どの時代にも海での拾いものは宝探しのようでワクワクしたものです。ゴミは当時からありましたが、今ほどプラスチックのゴミ、それも細かいかけらが巻き散らかされていたことは記憶に全くありません。考えてみればプラスチックが生まれたのがちょうど私が生まれた頃ですから、その頃はまだ海に捨てられる量も少なかったのでしょう。

ここ10年くらいでビーチに行ってもガラスや紙のゴミより圧倒的にプラスチック、それもマイクロプラスチックと呼ばれる細かいプラスチックが増えました。あまりに細かく拾いきれる量ではないことも多く、途方に暮れてしまいますが、それでも拾ってみるといろんな色があって可愛い。ビーチグラスや貝じゃなくてこれで何か作ったら面白いんじゃないか、と思ったことがきっかけで色々プラスチックで作り始めました。

作っているとその無になれる時間がかなり心地よく、いろんな場所で紹介するようになりました。そしたら私だけでなくたくさんの人が同じように夢中になって楽しんでくれるようになりました。

それがトラッシュ2トレジャーを始めたきっかけです。ゴミを宝物に変えようという意味です。

ゴミだと思うと汚い、不要物とネガティブなイメージだけれど、実際プラごみで作ったアートはかなりカラフルで素敵なものばかり。捨てるどころか家にずっと飾っていたり友人へのプレゼントに喜ばれるような作品が出来上がります。「あなたのゴミは誰か他の人のお宝」という諺がアメリカではあります。その言葉と同じように私たちがビーチクリーンで拾ったゴミもゴミと思ってしまったらゴミだけど、宝物に変えることもできる。そう思うと拾うこと自体が楽しくなったり、作る作業の過程でゴミについて一緒に考えてみたり、何故ここに流れ着いたのか推理したり。とにかく何も考えずにポイと捨てるところから少しずつでも意識が変わっていくだけで拾うだけでなく出すゴミも減っていくのをこの1年間くらいの活動で実感させてもらえました。

ビーチクリーンは実はとってもセラピーとしての効果も大きいのだという医学的研究報告もあります。砂浜を歩くだけでも心が落ち着き、さらに自分が良いことをしているという気持ちがセルフエスティームをもたせてくれるのだそうです。

ゴミ拾いもやらなくちゃという義務感ではなく、何か素敵なもの作れるかなというワクワクと楽しい気持ちでできれば続くと思うし、何よりなんでも楽しいのがいちばん!みんなで宝物 探しをするようにゴミを拾いながらアートの材料探しをし、ワイワイおしゃべりしながらおもいおもいのアートの時間を楽しむ私にとって、とっても楽しみな時間になりつつあります。

いろんなものの見方を変えてみるのもこれから私たちみんながに必要なサステナブルな生き方の第一歩だと思います。

もともと日本人はものを大事にする、食べ物を無駄にしない、保存したり受け継いだりして長く使うという文化を持っています。西洋が日本の良さを見習う時期でもあると思います。

海のゴミから素敵なものを作り出そう。そんなことから始まって、消費を減らし、今あるものを大事に使おうという気持ちが強くなりそうです。

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岡崎友子

鎌倉で生まれ育ちウインドサーフィンのプロとして世界を回るようになる。
その後スノーボード、カイトサーフィン、スタンドアップパドルと道具が変わってもいい波や風雪を求めて旅を続けるスタイルは変わらず。
旅や出会った人たちから受けるインスピレーションをテーマにフリーランスのライターとしても活動中。

1リットル瓶を持ち続けるとどうなる? #23

1リットル瓶を持ち続けるとどうなる? #23 1リットル瓶を持ち続けるとどうなる? #23

ある人がふとしたときに水が入ったプラスチックボトルを片手で持って、こう問いかけました。

「このプラスチックボトルをこうやって手に持っていることができますか?」もちろんみんな簡単に持っていられると答えました。

「ではこのまま一時間持ち続けていたらどうなるでしょう?」ちょっとしんどくなる。手や肩が痛くなってきそうだ。という答えがポツポツ出てきました。

「では丸一日、一週間持ち続けたら?」そんなの無理、しんどくて耐えられない。苦痛でしかない。みんな口々に言いました。

誰もがわかることです。

「では今日嫌なことがあったとします。その時の気持ち、納得できない不満はあっても、仕方がない、あるいは変に反論すると余計面倒くさいからと黙って自分の内に秘めておく。そんなことは多いですよね。その不満や嫌な思いは一日だったら我慢できるかもしれません。でも自分の中に溜め込んだままにしていると、一日だったら我慢できたことでもだんだん日に日にそれが重荷になっていき、しんどくなり、最後には体に大きな負担を与えます。そういうふうに考えたら本当に簡単にストレスをその場でクリアにしないで溜め込むことがとっても体に悪いことがよくわかりますよね。多くの体の疾患がこのようなことが原因であることが多いのです。」

でも溜め込んじゃいけないと言われてもどうやってなくせばいいのか、解決法は難しい。ストレスや心の傷は目に見えないからよくわからないし、それがどう体に影響を与えるか今まであまり理解できずにいました。が、この水の入ったボトルを持ち続けたら日に日に辛くなるという状況を説明されたらとても分かり易かったのです。

ハワイにはホオポノポノというマントラがあり、これが心身を健康にする鍵と言われます。その日にあったことや自分の過去にあったことにとらわれることなく全てまっさらにしてしまう方法です。他にも寝る、深呼吸をする。海や自然の中に身を置いて大きな世界を感じることで自分の中の小さな負のエネルギーがいかに小さなものかを実感する、など人それぞれだと思います。とにかく笑うことが大事だというお医者さんも少なくないようです。

ネガティブなもの、体の健康に悪影響を与えるようなストレスはどんどん手放していくことが健康の秘訣。

個人的には海に入るとどんなときも気が楽になり癒されます。

塩はもともと浄化、邪気を消し去る効果があり、また水も洗い流すというように流したり綺麗にする力を持っています。そう、まさに海は浄化そのもの。

自分の中にストレスや傷ついた感情を溜め込んでいないかチェックし、溜め込むと自分で自分を破壊していくパワーを持ってるのだということを頭に置いて、その日のうちに全て流し、手放していく努力を続けようと思いました。ずっと健康でハッピーでいるために。

大海原を渡ってくるクジラがおしえてくれること #22

マウイ島には冬になると遠いアラスカの海からクジラが南下してきます。南下するといっても何千キロも地図も道路もない海を渡ってくるクジラたちにはそれだけで想像もつかない不思議な力を感じますが、実際に30メートルもの巨体が海に浮かんでいたり、飛び上がったりしている様子は何度見ても息を呑むような感動を与えてくれます。

アラスカからやってくるザトウクジラは寒い海から暖かい海域、それもマウイ、ラナイ、カホオラヴェ島に囲まれた比較的浅く、穏やかな海域に子供を産みにやってくるのです。

だいたい12月くらいに今シーズン最初のクジラがいた!とニュースになり、1月2月になれば道端で眺めれば沖でパシャンパシャンとやってたり、潮を吹いているクジラを見つけることはそれほど難しいことではなく日常茶飯事になります。珍しくなるなるとはいえ、野生動物ならなんでもそうですが何度見てもジーと見ているだけでも飽きない。そしてあんなに大きな動物でも母の子に対する愛情を感じさせるシーンに出会います。

つい最近もある地点から別の地点までスタンドアップボード(サーフボードのようなものに立ってパドルで漕いで進むもの)で風に乗りながら移動していた時、大きなクジラの親子に出くわしました。

遠くに見えていた時には母親がヒレで海面を思い切り叩くのを子供に教えているかのように大きなヒレがバシャーンと大きな飛沫を上げて海面を叩くと、次に小さなヒレが横でピチャンと叩いている様子が見えました。母親のヒレはそれだけで私たちの身長の3倍くらいはありそうでした。だんだん近づいていくと私たちに気づいたのか、その動きを止めて静かに海面に寄り添って浮かんでいました。背びれが30メートルほど先に見えるけれど、海面下にある巨大な体を考える と私の板のすぐ横にいるような感覚。向こうも大胆に動かないけれど私もクジラを刺激しないようそっと通り過ぎて行きました。そして通り過ぎながら、向こうも私たちの存在を意識しているのを感じ、全く違い世界と価値観、時間の中にいるのに、私たちは同じ地球で生まれ生きているんだね、と心の中で声をかけながら出会えたことに感謝しました。(クジラは言葉ではなくエネルギーを感じて通じある動物だと思うので私の思いは向こうにも通じているかもしれないと思いながら)

この時は親が子供にブリーチングを教えているだけでしたが以前には子クジラが好奇心に駆られて私に近づいてきたこともあります。一緒に遊ぼうよーっとでもいう感じにまっすぐ向かってきたと思ったら急にスピードを落としてくるくると2回私の板の周りを回ったのです。その直後、すぐ前の海水が渦を巻き、大きなクジラがすぐ下に来ているのを感じました。緊張したけれど、その後親クジラは子クジラを連れてちょっと離れた沖にぽっと浮かび上がり、そこでブリーチングを教え始めました。

「こらこらおチビさん、一人で勝手にそんなに人間の近くに行っちゃダメよ、こっち来て一緒にブリーチングの練習を始めますよ」とお母さんに怒られて引っ張られて行っちゃったのかな、ほんとに人間の親子みたいだなと微笑ましく思いました。

人間の価値観で生まれた時間や距離、空間の概念では全く測れないようなスケールのクジラの生命。

世界は人間中心にまわっているのではない、それを理屈抜きで感じさせる光景に触れることができるのは幸せなことである、そう思います。

冬の海に潜るとクジラの姿が近くに見えなくても水を通してクジラの鳴き声が聞こえてきます。姿は見えないけれどきっと海のあちこちにいるのでしょう、エコーのようにいろんなところから聞こえてくる時もあります。深く潜れば潜るほど外の音が消され、海を通して聞こえるクジラの声だけが響き渡ります。ホエールソングはどういう意味があるのかまだ判明されていないそうですが、その声を聞くと溢れる愛を感じることができます。

以前妊娠していた友人を連れて潜った時にホエールソングを聞かせてあげたら、「私もここに子供を産みに来たんだよー」と泣きながら海のいるであろうクジラに向かって叫んでいました。

母の思いはどんな生き物で一緒。母なる海から与えられる愛もありがたいもの、海も海に住む生物もすべて大切に一緒に生き続けて行きたいものですね。

「好き」という気持ちのパワー #21

自分の可能性が120%出せるときっててどういう時なんだろう?そんなことを真剣にあまり考えたことはなかったのですが、最近周りを見ていて感じていることがあります。

例えば2歳の甥っ子、新幹線が好きすぎて、たった一つだけ持ってる新幹線の本を常に文字通り身につけている。寝るときは眠りに落ちるまで本を眺め、そのあとお腹の上にのせて寝ているし、ご飯を食べているときは自分のお尻の下に置いている。とにかく本に触れているだけで嬉しいみたい。新幹線のついてるハンカチをもらったら嬉しくてニヤニヤしながらずっとそれを広げたりたたんだり、壁に伸ばして見たり、お腹に広げて撫でていたり。長い棒のようなものを持つとそれは全て新幹線となり、右行ったり左行ったり連結されたりするのです。まだろくに話もできないのに、一番難しい名前の「はやぶさ」もなんとか言えるようになってしまった。

以前別の子供がウルトラマンが好きすぎてどうしてもウルトラマン図鑑が読みたくて、カタカナが読めるようになってしまったということもありました。好きこそ物の上手なれ、です。

大人になっても同じ。好きという気持ちほどパワーが出るものはない。好きなことをしているとき時間はすぐたってしまうし、疲れも感じず、反対にいいエネルギーがみなぎる感覚を経験します。

誰かを好きになって恋をすれば、夜眠らなくても疲れを感じなかったり、大好きなものだったら高いお金を払って買っても大事にする。安いというだけで買ったり思い入れのないものはすぐに捨ててしまい、結果ゴミが増える。でも大好きなものは修理して、丁寧に手入れをして長く使い思い入れも深くなる。

子供の幸せや命のためなら母親はどんなことでもする。これこそ好き(という言葉では足りないほどの愛情)のパワーの頂点をいくものかもしれません。

いろんな物や情報が多いからどうでもいいかなと思うものが周りにたくさんあるけれど、そう言ったたくさんのものより好きで好きでたまらないっていうもの一つの方が幸せを感じ充実感を与えてくれ、自分のパワーになるのではないでしょうか?

大好きなことの話をしている時の友人の目の輝きを見るとそれだけで自分までパワーをもらえますよね。

ちょっと好き、なだけでなく、「心が震えるほど」好きなことをする。そしてそれほど好きなことのための努力がどんなに苦じゃないかを感じる。好きなことのために出せる自分のフルパワーを経験したら、実際自分がどれだけ大きな可能性を持っているかを知ることができて、今度はどんなことにも自信を持ってその可能性をぶつけることができる。行為自体があまり好きなことじゃないとか、必ずしも好きな仕事ではなくてもそれが心から好きなことをするためのプロセスだと思えば嫌じゃなくなってくる。

心が震えるほど好きなこと、一生大切にしたいもの、それがたくさんあればあるほどパワーアップし、充実感ががみなぎってくるはず。だからまずは自分が本当に何が好きなのか、それをはっきり知りたいと思います。

長く愛用するもの、大事にしたいこと #20

一生大事にしたいもの、思い出、それぞれありますが、どんなものがそういうものなんだろうとふと考えてみました。

私だったら、故郷の駅に降り立ったときの潮の匂いの懐かしさとか、時間をかけて作った作品、丁寧に心を込めて書かれた友人からの手紙、子供の頃から遊んでいた森、天気が荒れたり、不便でしんどくてへこたれそうだったけど頑張れた旅や、怖いサイズの波を少しずつ少しずつ克服していって目標の波に乗れた時のこととか。

考えてみればみるほど、便利なものや簡単なこと、すぐ手に入る情報などではないことに気づきます。

でも便利な道具や、すぐ手に入る情報は嬉しいし、今や携帯やネット環境を失ったらパニックを感じる人がほとんどだと思います。それくらい私たちは便利なことに依存しきっている。なのに古き良きものや丁寧に時間をかけ作られた工芸品、手付かずに自然に愛着を持つ。

結局すぐ手に入るもの、簡単なものは苦労がないぶん思い入れも少ないのかもしれません。

そしてだからすぐ捨てたり、他のものに変えたりもできる。でも思い入れの強いもの、代々受けついてきたものや長年愛用したものはボロボロになっても捨てられない。

今ゴミ問題への意識が世界中で高まっています。プラスチックは便利な社会への大きな改革でした。軽いし長持ちするし、安いから使い捨てでもオーケー。思い入れなんて全くないからパッと使ってポイ、他の便利なものも考えてみるとそれに似たケースが多いです。そのせいでゴミがどんどん増えてしまっている。ビーチクリーンよりリサイクルより何より、自分が思い入れの強いものを長く愛用する、安くて何度も買い換えるものより、大事にゆっくり使えるもの、ちょっと不便でもそのぶんの労力は豊かな生活、思い入れのある生活につながるという意識に変わっていったら捨てるものが減るように思います。

サランラップを毎回使い捨てするぶん、お気に入りの布で自作のビーラップを作って毎回使い回す。本当に長く使えるお気に入りのものに出会えるとそのものを大切にすることも生まれます。

OKAのサイトでのエッセイも今回で20回目となりました。第1の時に使い始めたタオルはまだまだこれから先何年も現役として活躍してくれそうにふわふわです。そしてボロボロになってもご縁をもらった思い入れのあるタオルだから捨てられないかも。実家でも家にいても旅先でもそのタオルの感触は気持ちをホッとさせてくれます。

連載自体も同じように、読んでいただいてすぐ忘れるような使い捨てタイプ、でなく、思い入れを込めて、長くみなさんの心に残り、ホッとさせるような、そしてふと思い出してもらえるようなものを書いていければいいなと思います。

小さな挑戦 #19

この春、まだちょっと肌寒い風が吹いている日に子供達と海で遊んでいました。ほとんどの子供が泳げるし、海で遊ぶことに慣れていたのですが、一人だけちょっと水が怖くてなかなか近づけない子がいました。

まだ海に入るには寒いから砂遊びをしながらお城みたいなのを作ったり、それを水で固めたくてお水を汲みに小さなバケツを持ってその子は波打ち際まで行くのですが、水が汲める深さまで行こうとすると波が来て、それが怖くて後ろに後退、また汲みたくて前に進むけど、波が来ると走って逃げる。この繰り返しでなかなか水が汲めるところまで行けずにいました。

私たちにとって足の甲にかかるほどの水が怖いなんていう時期はあまりにも昔のことでそれに恐怖心を感じるなんていう時代を忘れてしまっています。

でも恐怖心もなぜそれが生まれるのか、ちゃんと分析すると何をすればいいのかわかって来る、そしてそれは大きなステップではなく小さな小さなステップを何度でも踏むことで恐怖を乗り越えられるのです。

小さな小さな波が目の前に来たらそれをジャンプしてみよう、そういって手を繋いで一緒にジャンプ!とやり出したら、怖さがなくなったようで楽しみながら何度も何度もジャンプしてくれました。

そのうちもう少し奥まで行こう、もうちょっと大きなのをジャンプしようと、前に進んでいき、最後には一人で水汲みができるどころか、着ていた服も全部びちゃびちゃになり、夢中になりすぎて寒いことにも気づかないほど遊び、帰りはタオルでしっかり包んであげてもガタガタ震えが止まらないほど、でも目だけはキラキラ、今日自分が小さな挑戦をして、恐怖心を乗り越え海の寄せて来る波と友達になれたことへの喜びが見えました。

こんな小さい頃から私たちは少しずつ知らず知らずのうちに恐怖心と戦い、小さな挑戦を続けて大人になっていくんだなあ。そしてすっかり大人の私たちも実は毎日小さな挑戦が目の前にあるはずだからそれを見逃さずにしっかり向き合って行きたいものだと感じさせてくれました。

春に思い切り伸びるために #18

今年の日本の冬は例年にない寒さ、街中でも雪が何度か降ったり、北海道など雪が降り止まず家が埋もれてしまうと心配するような状態だと聞きました。

犬は喜び庭駆け回り、という歌もありますが、最近の犬はけっこう甘えんぼで寒いからお散歩も行きたがらないなんていう話も聞きます。もちろん私たちも布団から出るのに勇気がいる。顔を洗うとき水がキーンと冷たく、身体中が縮こまってしまう。外を歩いていてもコートの襟に顔を隠しながら背中を丸めて小さくなって歩いてる。下を向いているからせっかくの景色もあまり見ずに通り過ぎてしまっているかもしれません。

でもそういう時期ってもしかしたら必要なのかも?とスポーツトレーナーの方の説明を聞きながら先日ふと思ったのです。

「いい筋肉は伸び縮みをよくするもの、グーンと伸びるためにはその前にぎゅっと縮まらないとダメ。ジャンプでも、より大きくジャンプするには膝をしっかり曲げて体を小さくすることから始まる、突っ立ったままでは大きくジャンプはできないでしょう?小さく縮んでこそ勢いよく伸びることができるんだ。」という説明をきいて、もしかしたら寒い冬はすべてのものを縮こませてしまうけど、それは春が訪れた時一斉に思い切り花を咲かせたり、のびのびと走り回ったり、遠くに飛んで行ったり、子供を育てたりするための準備期間なのかもしれない。

そう思ったらこの寒さが愛おしい(とまではいきませんが笑)必要なものに思えてきました。

そんなことを考えながらふと周りを見渡すと、下を向いて縮こまって歩いていたから見逃していたいろんなものが春への準備をしていることに気がつくかもしれません。

太陽が昇るのがほんの少しずつ早くなり、通勤時に顔を照らして温めてくれるようになったり、葉を全て落とした寒々とした並木の枝の先にまだまだ固いけれど新芽の尖ったものが出てきていたり、大好きな沈丁花の香りがする頃はまだまだ寒い時期ですが、それでもあの匂いを嗅ぐとああ、あったかくなってくるんだなと優しい気持ちになれます。

沖縄では全国先駆けて、すでに桜が咲いたそうだし、伊豆河津桜もそろそろです。今は縮こまっててもいいんです。もう春はすぐそこ、思い切りジャンプできるように準備開始、いろんな新しい挑戦や楽しい計画をしつつ春になったら花や木と一緒に思いっきり行動開始です。まずは春の訪れを感じさせるもの探しのお散歩で動き始めるのも楽しいかもしれませんね。

広大な土地の片隅で小さく咲く忘れ草の存在感 #17

花はどれもそれぞれ美しい。けれど、一番好きな花を聞かれたら、私は「忘れな草」と答えるでしょう。

雑草のようにどこにでも生えるのに、手で花びらに触れるだけで傷ついてしまうほど弱い。派手さは全くないけれど、荒涼とした広い大地に楚々とした様子で咲いている様子が花言葉である、「私を忘れないでね」と言っているかのように感じられ、押し付けがましくない健気さを感じるのです。そして忘れな草は私にダイレクトにアラスカを思い出させてくれます。

アメリカ最大の大きさを持つ州、アラスカ。

Everything is big in Alaskaと言われるように、日本の国土の4倍以上の広さがあり、アメリカ大陸最高峰のデナリがそびえ東西南北に何千キロも広がっています。土地の雄大さはもちろん、フィッシングに行けば釣れるオヒョウは小さなボートくらいの大きさだし、浅い清流を遡ってくるキングサーモンも小学生くらいの大きさがあり、普通に住宅地や道路を歩いてくる野生のヘラジカの大きさにもびっくりします。街を過ぎ何隣町まで何時間もかかるくらい離れていたり、グリズリーもアラスカではよく見かけられます。野菜は白夜のせいでお化けのよう巨大に育つことでも有名。寒さだってもちろん特大サイズ。

何でもスケールが大きなアラスカなのに、なぜか州花だけは注意してみないと見過ごしてしまうほど小さな青い花をつける忘れな草。

小指の爪ほどの大きさもない、少し濃い藤色の花びらと中心に金色のリングのような模様があるこの小さな花をアラスカの人たちはこよなく愛しています。州旗もその忘れな草の色合い(青と金)でデザインされているほど。

大きなアラスカで、なぜあんな小さな花が愛されるのか。

でもなんとなくわかるような気もします、広大な原野でふと下を見ると健気に咲く小さな花はそのまま厳しい気候と人里離れた土地でひっそりと、でも精一杯生きているこの土地に住む人たち自身に重なるのかもしれません。

夏へころもがえ #16

桜の花が散ると、今度は藤が咲き、次はつつじと続きます。そして夏の盛りにはヒマワリやグラジオラス。春からだんだん夏に向かって花々の色合いが鮮やかになっていくと感じるのは私だけでしょうか?

寒さに縮こまっていた体が開放感に満ちてのびのびとなるのと同様、花もなんだか楚々としたものからちょっと派手な大ぶりのものが増えてくるような気がします。

何より南国に咲く花々は鮮やかで大きなものが多い!色もどちらかというと派手な色合い、服でいえばパーティーモード。

新緑から緑が太陽を浴びて日に日に濃くなっていくさま、そして濃い緑に映えるような赤やオレンヂ、黄色の花が咲くさまは、寒い地方や、春先に咲く楚々とした白や薄ピンクの繊細な花とは違うエネルギーを持っていると思うのです。どちらも甲乙つけがたい素晴らしさで、私たちの心を豊かにしてくれることに変わりはないですが。

四季がないと言われるハワイでも実は季節の変わり目はいろんなところで感じることができます。

ハワイも夏は、トロピカルフラワーやフルーツが、鮮やかな色を競うようにぶつけ合います。ピンクやオレンジのグラデーションが美しいまん丸のマンゴーや、真っ赤なライチー、オレンジ色のパパイヤ、パイン、色を見ているだけで楽しくなってしまうフルーツがたわわになっている様子は爆発するような生命力、夏のエネルギーを感じさせます。

夏服へのころもがえはいつも新しい季節の到来を感じさせ気持ちをリフレッシュさせてくれます。

夏の花やフルーツのように冬には決して着ないような色の服も夏なら楽しめる。

派手な色を着る勇気まではないとしても、部屋を涼しげな色のカーテンやカーペットに変えてみたり、バスルームやキッチン周りのタオルの色を変えたり、季節の花を生けることでも夏気分を味わえるでしょう。

この夏はブラウンとパープル主体だったベッドルームを夏色にして気分を変えようと思っているのですが、思い切ってターコイズで夏を迎えようと思います。キッチンには明るいグリーン。季節の変化を自分なりに最大限に楽しむことでワクワクできて毎日が豊かになる気がします。

古代ハワイへの知恵に学ぶ豊かさとは #15

先日あるドキュメンタリーを見ていてハワイに古くから住む人の言葉にハッとさせられました。

ハワイ語でWaiは水を意味します。今私が住んでいる場所はワイルクWailukuと言い、その隣右隣がワイカプWaikapu左はワイエフWaiehuその先にワイヒーWaiheeとWaiがつく地名が目白押し。

ワイルクの町の一番奥にはマウイ島のおへそと呼ばれる聖地、イアオ渓谷があり、そこから流れる清流は海に流れ、多様な魚を引き寄せます。

古代のハワイにとって清い水ほど尊いものはありませんでした。水がなければ主食のタロイモは育たない。それだけでなく、水が流れる周りには植物が育ち、森ができ、ありとあらゆる動物が生活します、また川の水が森のミネラルをたくさん含んで海に流れこみ、海を豊かにし、魚も増えるのでハワイアンたちは引き潮になると潮溜まりとなるフィッシュポンドを作り、そこにとらわれた魚をついて重要な食料としていました。

そんなわけで古代のハワイアンにとって綺麗な水が流れる場所こそが理想の土地であり、水イコール富であったのです。

だから水waiを2回繰り返すwaiwaiというハワイ語はリッチであるという意味なのも納得できます。

ただしそのリッチという概念がハワイでは違うんだとそのときの説明ではっとさせられたのです。

waiwaiでいうリッチとは「多くを持つこと」ではなく「多くを人に与えることができること」なのだそうです。現代社会において、多くを所有すること、人よりたくさんのものを持っていることがリッチだと考えがちですが、アロハスピリットの土地ハワイでは自分だけのために蓄える、そういう概念は存在しなかったのかもしれません。

誰よりもお金持ちでなんでも持っているのに幸せそうに見えない人も世の中にはいます。それも少なくない。

もしかしたら豊かさは富そのものにあるのではなく、その富を多くの人に分け与え多くの人を幸せにし、感謝されことにあるのかもしれません。

水が豊かさの象徴だった時代、ウエストマウイマウンテン、イアオ渓谷の裾野から海へ広がっていく土地は豊かな生活を多くの人に与えてきた場所だったのでしょう。

空気と同様、水が当たり前に手に入る今の生活ではそのありがたみを感じにくいかもしれないけれど、もしもその綺麗な水がなくなってしまったら?食べ物を与えてくれる森も動物も魚もいなくなってしまう。人は分かち合えるだけのものがなくなり、資源は取り合いになり、心まで豊かさをなくしてしまうでしょう。

豊かさとはたくさんのものを持つことではない、そのことはなんとなく感じていたことだけれど、豊かさとは多くを分け与えることができることなのだという古代ハワイの概念は、妙にスーッと納得できる説得力がありました。

富は貯めるものではなく分かち合うもの、自分の持ってるものをシェアできるそんな豊かさを持ちたいなあと思います。

日々の小さな感謝 ~眠れないときの特効薬~ #14

英語では挨拶代わりに have a good day(良い1日を!)と声をかけます。いい日であればそれに越したことはないけれど、誰だってあまりいい日だとは思えない日を過ごすこともある、悔しさや怒りに爆発しそうな日、あるいはしんどい日が延々に続くのではないかと不安になる時期を経験することもあるでしょう。

心がざわざわして、呼吸も楽じゃない、なにも自分の思い通りにいかず、体は疲れているのに眠れない。暗い雲がどんどん広がって自分の周りを包み込んでいってしまうような感覚はなんともつらいものです。

サウンド オブ ミュージックという古い映画がありますが、子供の頃から大好きな映画で何十回と観ました。なかでも主役のジュリーアンドリュースが「私のお気に入り」という歌を歌う場面が大好きでした。

「白いドレスを着た女の子と青いサテンの飾り帯

私の花とまつ毛に残った粉雪

白銀の冬と

春にそれが溶けていくこと

それが私のお気に入り

犬が噛んだとき

蜂に刺されたとき

悲しい時

ただ思い出してみるの

私のお気に入りのものたちを

そうすれば、それほど悪い気分にはならないわ」

自分の好きなものをいくつも思い浮かべれば辛いことを忘れて気分が良くなる、そんなおまじないのように感じ、まだ英語なんて全くわからない小学生の頃、勝手に自分のお気に入りを歌詞に入れ込んで、「それが私のお気に入り~♪」と歌っていました。

最近では夜寝る前にその日にあった嬉しいこと、良かったことを最低10個思い出し、そのことに感謝することを心がけています。これも私のお気に入りの歌に似た効果があるのではないかと思っています。

目をつぶってどんなに小さなことでもいいからリストアップする。

例えば常に赤の信号が今日は青で止まらずに行けたとか、スーパーで並んでいたら前の人が素敵な男性でニコッとしてくれたでもいい。大好きなお菓子がセールで安かったとか。帰り道雨の中を走っていたら虹が出ていた、ラジオから好きな曲が流れてきた、着ていた服を「似合うね」と褒められた、会社のビルの窓から見えた空が夕日で真っ赤に染まりきれいだったことでもいい。子供達の笑顔が1日の疲れを吹き飛ばしてくれた、通勤電車で座れた。たまたま思いつきで買った和菓子がとっても美味しかった、ポケットの中に忘れていた千円札が入っていた、さいなことでもどんなにくだらないことでもいいのです、良かったなと思うことを10個思い出していきます。

1日の終わりに振り返る小さな感謝をゆっくり味わうようにならべあげると、今日もなかなか捨てたものじゃなかったな、と感じるようになり、気がついたら穏やかな呼吸をしながら瞼が閉じて眠りについていたりします。

私が身につけた眠れないときの特効薬ですが、小さな感謝の積み重ねが心を安らかに幸せにしてくれることをそのおまじないは教えてくれました。

持っているだけでほっとするもの。 #13

子供の頃、ベッドで眠りにつくとき、あるいはどこかにお出かけするときどうしても持っていないと気がすまないものがあった記憶はありますか?

私は自分では全く覚えがないけれど、いつもショートヘアだったので、ロングヘアーの黒髪に憧れ、長い髪のカツラを持ち歩いてチャンスがあるとかぶっていたと聞きます。

おしゃぶりが離せない子もよく聞きます。赤ちゃんのときに使っていた毛布がもう成長して小さすぎるにもかかわらずそれがないと寝られない子供の話もよく耳にしますし、興味深かったのは母親のストッキングをどこに行くにも持っていく子供が、愛用していたタオルケットが手放せず、かといって持ち歩くには大きすぎるので、小さく何枚にも切ってその切れ端を持ち歩かせる、なんていう話も。

お母さん、そして寝床というのは安心や心が落ち着くことの代名詞みたいなもの。結局そこが安全な場所のイメージにつながるから持っていたいのかな、と自分なりに思っています。

アメリカではそういった、持ってるだけで安心するもののことをセイフティーブランケットと呼びます。たぶんそれがブランケットやタオルであることが多いからそうネーミグされたのでしょうけれど、持ってるだけで安心するお守りのような存在なのです。

大人になってからはさすがに赤ちゃんの頃から使っていた毛布は持ち歩きませんが持っていると安心するもの、心が落ち着くものってだれでもあるのではないかしら?

私は若い頃旅に行くときに、必ず小さな携帯サイズのアルバムを持ち歩いていました。当時はアイフォンもコンピュータもなく写真は全てプリント。地球の裏側で何か困ったとがあったとき、寂しくなったとき、一人でテントで寝ているときなどに出して、そこに入っている仲間や家族との楽しい思い出を見返したりすると心が和んだのです。

最近はコンピューターや電話にお気に入りの写真をいくらでも入れておくことができるのでアルバムは持ち歩かなくなりました。

だからと言って携帯電話が持っていると心が落ち着くものかというと、それはちょっと違う感覚で、どちらかというと中毒性のために持っていないと不安になるものではあるけど、落ち着くもの、の意味とはちょっと違う気がします。

たとえば出かけるときに必ず持っていくタオル、お気に入りのハンカチ、あるいは何かあると読み返す好きな本、肌身離さず身に着けているネックレスなんかが大人になってからのセイフティーブランケットと言えるのかもしれません。

特に必ず持っていくタオルは洗濯したての匂いや、天日で干した後の香ばしいような匂い、少しパリパリしたくらいの感触がたまらない。それを寝なれていない寝台の匂いを嗅ぎ慣れたものに変えるために枕元に置いたり、抱いて寝たりすることもあります。

そんなたわいものないちょっとしたものやことで自分が安心できたり、気持ちが落ち着く、なんだか人間って単純なのか複雑なのか。

自分のセイフティーブランケット、それがなんであれいつまでも大事にしたいですね。

自分の乗るべき人生の波 #12

ハワイで4階建てくらいの高さの大波に向かって行き、その波にのる挑戦を続けている友人のドキュメンタリーの映画ができました。

その映画女性では初めてとも言える巨大なチューブ(水が巻き上がって筒状になり、その中にサーファーが吸い込まれるように入っていきながら波に乗ること)に乗った時の映像だけではなく、そこに行き着くまでの長い道のり、彼女の葛藤や挫折、そしてそれでも失わなかった波への情熱を、鮮やかに映し出し、見ているものの心にズシンとうったえるものがありました。

大きな波を得意とし、パワフルなサーフィンに定評があった彼女は、一時はプロツアーを回りワールドチャンプを目指したものの、小さな波でのパフォーマンスではなかなか自分のいいところが出せず、いろんなアルバイトをして遠征費を稼ぎながらの旅に、これが本当に自分がやりたいことなのか疑問持ち続け、結局自分のスペシャリティーがビッグウエイブであり、世界で一番大きな波が自分の家からすぐのところにあることに気がつき、その波にフォーカスしていくようになります。

そしてある日、本当に来たのです。まさに自分が夢に描いたような波が!

その波がやってくるのを見た時、彼女は板にまたがりながらそれが彼女の乗るべき波だとはっきり感じたそうです。迷うことなくボードを岸に向け、力強く水をかき、波の勢いに乗ってボードの上に立ち上がったあと、彼女は女性がが今まで乗ったこともないサイズの巨大なチューブに入り込み青いトンネルに包み込まれてからすっと抜け出てきました。

夢にまで見た波そのもので、自分が乗りたいと思った通りのライディングができたとき、今までの葛藤や挫折、迷い、全てが消え去り、全てが意味のあるものに感じ、自分の人生が完璧に肯定できたそうです。

自分の進む道を見つけることはむずかしい。

自分がやりたいと思っていることでもなかなか実現できなかったり、生活できるに十分なだけ稼げなかったり、でもまずは好きなことをやる、好きだったら失敗してもお金が稼げなくても『好きだから』という理由があるから続けられるはず。

サーフィンはまさに人生そのもの。いい波に乗るためにいろんなことを克服し、時には流れに身を任せ、時には荒々しい波に巻き込まれ息ができないほど苦しいめにあいながらも、自分の乗るべき波を選び、それが来た時には迷うことなく力一杯漕いでテイクオフする。

そして自分が乗るべき波というのは皆同じわけではなく、私たち一人一人がそれぞれ乗りたい波を選ばなくてはならないのです。

その波を見つけることができればそれは人生最大の喜びでもあります。

映画の中で彼女は彼女らしい生活を見つけ、自分らしい波乗りを追求していきます。その姿は自然体で真面目でとっても美しい。

自分らしく生きる、とはどういうことで何がしたいのか、今一度自分と向き合って自分の人生で乗るべき波は何か、しっかり考えてみようという気持ちになりました。

鼻の曼荼羅 #11

近所のお店で曼荼羅塗り絵ブックというのを見つけた。塗り絵というと子供の頃を思い出すけれど、この本はどうやら子供用というわけではないみたい。なにしろかなり細かい絵柄だし、値段も結構する。でもちょっとそそられる。

曼荼羅は元はと言えば仏教のもの、今でもチベットなどでは定期的に砂の曼荼羅が作られる。これは何かを願って祈りを捧げながら大勢が何日もかけて作るというのに出来上がったらその美しい砂の芸術作品を手で払って壊してしまう。世の中どんなものでも永遠に残るものはない、固執してはいけない、という教えなのだろうか?同時に壊れてしまうもの、手に入らないものにそれだけの労力と時間を使うことにも意義があることも理解するのかもしれない。

塗り絵は結局買わなかったけれど、曼荼羅の絵柄はなんとなく好きで良く目につく。たまに海で貝殻や石、サンゴなどで曼荼羅のようなものを作ったりする。

無駄な行為、という概念をまだ持っていない子供たちは誰に言われることなく自然にこういうことをやって楽しんでいるけど、大人になってもこういう行為が実はすごく心地よい。ただ好きなものや色を並べておくだけでなんだか気持ちが落ち着き、嬉しくなってくる。一生懸命丁寧に作った曼荼羅はそのまま浜に置いていくしかない、満潮で岸に寄せる波に流されて消される曼荼羅、でももしかしたらその前に散歩に来た誰かに見つけてもらえてその人の心を優しく撫でるかもしれない。

花を使った曼荼羅をつくることも好き。高価な花を買う必要な全くなし、散歩の途中に生えている雑草や木から落ちてる花を道で拾ったりしたものを集めて机や板の上でに並べてみる。誰かにあげるでもなく、動かせるものでもない。水につけることもできないので長く保つこともできないけれど、出来上がるとなんだか自分の気持ちが曼荼羅に託されてとても愛おしく感じたり、何かすっきりしたような気持ちになれる、自然の作り出す色合いはどんなに突飛な色同士合わせても美しいことに感激する。洋服でオレンジと紫と茶色と鮮やかな緑を合わせたら、とんでもないことになるけど自然界の花や草だったらそれが素晴らしくなってしまう。自然の美しさはとても人の作ったものではかなわない。本当にそう感じる。

どんなに美しいものでも限りはあり、永遠ではない、でもその美しさをその時その瞬間感じて、感謝して愛でることは私たちに人生の送り方を間接的に教えてくれてるのかもしれない。

子供相撲の稽古で #10

旅先で散歩をしていたらある集落で子供相撲の練習風景にぶつかりました。

夕暮れ時の柔らかく暖かい陽の光に包まれ、まわりには散歩の途中に寄ったのか、集落のお年寄りや近所のおかあさんたちがのんびり座って見ていました。この島では相撲と舟漕ぎは伝統的なスポーツで、集落対抗の競技が年間通して盛ん。子供達もそんな盛り上がりを見て育つので相撲と舟漕ぎで活躍したいという気持ちが小さい頃からあるのかもしれません。中には3歳くらいで華奢な体に巻いたまわしがオムツにしか見えないような幼児もいてお兄ちゃんたちに混じってがんばっていました。

先生はもうかなり年配のおじい、挨拶や練習はきちんとさせるし、練習中は一人一人に細かい注意をして鋭い目でみんなを観察しています。でも小さな子供たちもなついていて暇さえあれば練習の途中で寄ってきて膝の上に乗っかったりしている。「そっちの足は座ると痛いからこっちにしてくれ」と何度先生に言われてもすっかり忘れて飛び込んでいきます。

柔らかい印象を受ける島の方言でおじいは優しく、しかしきっぱり大事なことをみんなに伝えようとし、子供達も最初は周りをキョロキョロしていたのにおじいが話し始めるとみんな目を見てしっかり聞いていました。

「いいか、いい加減な練習していたらいい加減な試合しかできない。せっかく勝ってもいい加減な勝ち方しかできない。負けでも堂々と帰ってこれるほうがいい。堂々としていられる練習をすることが大事なんだよ。」

子供達に向けられて言葉なのに、なんだか遠くから見ていた自分に向かって言われていたようで、どきっとさせられました。

子供達はしっかりうなづきながらも話が終わると練習後のおやつに向かって走って行き、その無邪気さに、素敵な一日の断片を分けてもらえたような、あったかい気持ちになりました。

いい加減な人生を送らないための大事な教訓をありがとう。

子供の頃の宝物 #9

友人の子供が、夏じゅうお手伝いをして貯めたお金をすべて使って欲しかったぬいぐるみを買ったと見せに来た。ずっと頑張って貯めていたお金だったのでいざ買うときは興奮と緊張で呼吸が乱れるほど緊張し、はーはー言いながらたくさん並んだぬいぐるみの中でどの子がもらって欲しそうな顔をしてるか何度も見比べて選んだそうだ。

朝起きて海に練習に行くのは嫌だったけど最近はそのぬいぐるみを見ると頑張れと励まししてくれてるみたいに思えて行くのがあまり嫌じゃなくなったという。ただの思い込みだと言えばそれまでだけど、でも実際大人になってもほとんどの幸せは思い込みや自分の気持ち次第なのかもしれないと、その話を聞きながら考えた。

子供の頃は考古学者になりたかった。化石を掘る気分で家の庭をやたらめったら掘り起こして見つけた、なんの動物だかわからない骨のかけらや犬のものであろう歯、鳥が木に刺したカエル、珍しい形や色の石が私の宝物だった。海岸の地層から化石なんか見つけたときにはそれはもう大変な騒ぎだった。

他の人には何の価値もないものかもしれないけれど自分にとっては何よりも大事で、見ているだけで嬉しくなるようなもの。子供の頃はみんなそれぞれが勝手なものを宝物として大事にしまっていた気がする。大人になってくるとみんなが持っているものが価値があると感じたり、高価なもの、ブランド品がいい(もちろん質がいい、価値があるから高価な場合も多いが)と個人のものへの価値観が統一されていく。

子供の頃、自分にとって大事なものはなんだか自分だけにわかる宝物みたいでちょっと嬉しかった。

大人になった今でも他の人にはわからないけど自分にとっては大事なもの、そんなものを見つけるのも小さな幸せを感じられるのではないかな、と思う。

島のおじいとおんぼろのカブ #8

夕暮れ時、ある島の小さな集落でのこと、道ばたで友人と話しこんでいたらそこにステテコとジンベ姿のおじいが錆だらけのバイクに乗ってやって来た。 通り過ぎざまに軽く挨拶すると乗っていたホンダのカブを止めてにこやかに話しかけてきた。

わたしの友人がその錆だらけで今にも崩れ落ちそうな様子のカブに思わずそっとふれたら、おじいはちょっと恥ずかしそうに「もう100歳くらいいってるオンボロだよ。恥ずかしいんだけど乗ってるわしと年相応だから」と言い、「新しいものを買ってもいいんだが、買ってもいくらも乗らんうちに自分が死んでしまうだろうと思うとあと数年最後まで一緒に頑張っちゃろ と思ってね。」と続けた。

30年前から乗っているというカブは修理されてないところがないほど細かく直されていた。それもプロの手ではなく、おじいさん本人が手近にあるものを使って工夫しながら直したのがよくわかる。新しいものを手に入れるのもうれしいけれど、大事に大事に何年もつき合っていくと自分らしさが使っている物からもしみ出てくる。壊れても直したりパーツを取り替えるだけで使い続けられるのは環境に良いだけでなく、 直して行く過程で自分の創造性も養われるし、そのものが愛おしくなってくるはず。

錆び錆びではあるけれど危険な状態で走っているわけではなく,補強が必要なところはアイデアたっぷりの身近な物を使った修理がされていたし、ママさん自転車のような籠もカスタムでつけられ、 そこに畑作業に使う鎌やはさみがぐらつかないようにかけられるようなシステムまで上手に考えられていた。

ずっとかわいがっていた子供のころのぬいぐるみやぼろぼろになるまで着古したTシャツが捨てられないのも、自分の思い出が心まで沁み込んでる気がするからかもしれない。

バイクだけでなく、台所用品もシーツなどの寝具も、家具やタオル、服などの身の回りの物も使い捨てで買い替えるのではなくもう何十年と使ってる、自分らしさが沁み込むほど年数をかけてつき合えるものに囲まれて生活できたらきっと心地よい空間が生まれるだろうな。

島のオレンジの木 #7

太平洋の首飾りと呼ばれる点々とした小島が連なるマーシャル諸島。島幅が狭いところは右側も左側も海が見えてしまうほどの珊瑚のかけらで出来ている小さな島で地下水は塩水、育つ植物の種類は数えるほどしかない。
中心部からは船で何日もかかるので物資も海が荒れれば長い間途絶えるため、彼らの歴史は飢えに苦しむ事の連続でした。
もともとはノニ、ブレッドフルーツ、ココナッツ、パンダナスくらいしかなかったのが、最近は土を作って手入れして潮に強い野菜を試作したり、熱帯の美しい花を育てて家の前を飾り立てる努力をしているようです。

私達が島に上陸すると、皆シャイで私達を見ない振りをするなか、一人の男性が近づいてきてココナッツを振る舞ってくれ、歩いて自慢のオレンジの木まで案内してくれました。
何百とある島からなるマーシャル諸島でオレンジの木を見たのは初めて。きっとなかなか育たないのを丁寧にてしおにかけて育てたのでしょう。島では特別贅沢な食べ物のはず。
「島の誰もが自由に食べていいんですよ、ぜひ食べてください」と自慢げに見せてくれました。ほかの島でもみたことがない立派に育ったオレンジの木は彼らにとってこの島の豊かさの象徴なのかもしれません。
  海が荒れて何ヶ月も物資の船が着かず、飢えに苦しむことも多かったマーシャル諸島の歴史。それでも「いくらでも食べてください」とかえりには大きなバナナ の房とかかえきれないほどのココナッツ、そして丁寧に編まれた工芸品まで(売り物のはずなのに買った分より高いものを)プレゼントされました。

私達はすぐに便利な社会、何でも手に入るところに戻るというのに自分たちのもっているわずかなものを惜しみなくシェアする事で自分たちの豊かさを示すマーシャルの人たち、本当の豊かさってなんだろうと考えさせられました。
なにもなくてもそこにあるものを皆でわける喜び、人に喜んでもらう事で得る幸福感を持っていることこそ、どんな状況においても豊かでいられる一番の財産なのかもしれません。

悠久の海 #6

夏の喧噪は9月に入ったとたん消え去る海。足に触れる砂の温度が冷えてきて、秋の海が一番いいなと思っているうちにもう裸足で浜を歩けないくらい寒くなってしまう。でも冬の海は太陽の暖かさを一番感謝できるときでもある。斜めから柔らかい光が海に反射してキラキラ輝き、冷たくなった頬を優しく撫でるように暖めてくれる。

じんわり体が温められ、目の前に広がる海がどこまで続いているかを想像したとき、あらためてその大きさに愕然とさせられる。自分が立っているこの小さな浜辺は飛行機で何日もかかる地球のはての海とも繋がっているのだと考えると、自分の生きている空間は実はとっても大きい事に気づく事が出来る。

鯨たちは何千キロも離れた北極の海から暖かい海で子供を産むため毎年冬にハワイにやってくる。12月から4月にかけては必ずと言って良いほど毎日鯨の姿を目にする事が出来る。あんな大きな体の鯨が自分と同じように地球で暮らし、旅をし、同じように母性を持って子供を育ている様子は、自分が把握している世界観よりずっとずっと広い世界、そしてゆっくり流れる時間がある事を気づかせてくれる。

普段どうしても一日24時間、週単位でスケジュールが組まれ、やる事を必死になってこなす生活が身に付いてしまっているけれど、鯨のスケジュールには分刻みのスケジュールも締め切りもなく、今日ここに行かなくてはならないと言う決まりもない。でも毎年必ず夏にはアラスカに行き、冬にはマウイに戻ってくる。雄大な海全体を自分の行動範囲にしてもう何百年、何千年も世代を越えて同じように生きてきている。

鯨に限らず、野生動物に遭遇すると、その動物をいくら見ていてもあきないのは何故だろうといつも不思議に思う。たぶん彼らが自分と同じ空間にいるのに、自分とは全く違う世界観や時間の概念持ちながら生活している事に、ほっとさせられるんじゃないかな。

都会のラッシュアワーであわてて電車に乗ろうとしているとき、仕事が終わらず夜中まで机に向かっているとき、ふと、地球の向こう側ではこの同じ空気を吸いながら鯨が悠然と海を泳ぎバフーッと呼吸をしに海面に出て来ている。それを知っているだけで、なんだか穏やかな気持ちになれる、そんな気がする。

シンプルにすることで見えてくる小さな幸せ。 #5

夏になると誰でもアウトドアに向かいたくなります。木や花が太陽を浴びてぐんぐん伸びて行く、そのエネルギーを私達も近くで感じたくなるのかもしれません。

なんにもない砂漠の真ん中に行ったときのこと。ぽつんぽつんとサボテンがあるだけのところに簡素な屋根のメインの建物、あとはそれぞれのテントが立てられているサーフキャンプ、そんななかで、起きては海に入り、食事をしては散歩、あるいは読書、そしてまた海に入り、視界を邪魔するものがないから朝は夜明けに感動し、夕焼けに感謝する暗くなったらくっきり見える天の川を眺める、そんな毎日を過ごしました。同じ場所で毎日それの繰り返し、なのに不思議なくらい豊かな気持ちになれました。

日常生活では、生活を便利にする機械や道具の必要を感じたり、目の前に並んでいるすてきな物が物欲を刺激してなんだか物足りない気持ちが拭えない事が多いのに、キャンプでは最小限のものでなんとか工夫して生活するのが楽しい。水も食材も限られる中で上手くやりくり、余りものを出さないように、残ったもので工夫しておいしい料理を考えたり、回りに落ちている木や石を使って快適なスペースを作ったり。便利さはちょっと足りないくらいがいいのかもしれません。

シンプルビューティーにおいては日本はどこにも負けない、そしてその美徳を評価する人種でもあります。

自分の時間や生活環境にもそれをちょっと取り入れてみたいなと思います。

飾りを落とせるだけ落とした中にある高貴な美しさを見いだす日本の芸術、伝統技術は末永く受け継がれて行ってほしいもの。暮らし方も同じかもしれません。

季節のにおい #4

特定の歌が流れると思い起こす出来事があるようにあるにおいが必ず思い出させるものを誰でもひとつやふたつは持っているのではないでしょうか?

私にもそれぞれの季節を思いおこさせるにおいというものがあります。

春は土のにおい、雪国では雪が溶けてだんだん地面が姿を現し、湿った土のにおいがします。春はいろんな花が一斉に咲くというのに、花のにおいよりも土のにおいが印象に残っています。暖かくなって土いじりが楽しくなるからなのかもしれません。

夏のアラスカ、飛行機を降りたとたんに鼻にツーンと来る独特な緑のにおい。日本の避暑地針葉樹林のにおいにも似ているのですがそれよりもさらに強い緑のにおい。実は道ばたに雑草のように生い茂っているカモミールのにおいだったようです。アラスカと言うとあのにおいを思い出します。

秋といえば干した布団のにおい。太陽によって暖かくふかふかに乾燥された布団を取り込み、顔を埋めた時のこおばしい、干し草のようなにおいが大好きでした。

冬で思い出すのは沈丁花の香り、寒い中急にどこからか漂ってくるあの香りは春はもうすぐ来るのだと感じさせてくれ、子供の頃通学路のあちこちにあった花々にに鼻を突っ込みにおいを楽しみながら家に帰った思い出がありますが、未だにこのにおいをかぐと子供の頃の通学を思い出します。

故郷を思い起こさせるのは、なんといってもモアっとするような潮のかおり。出先から電車で戻ってきてホームに降り立ったとたん、このにおいがすると、ああ、うちに帰ってきたな、とほっとしたものでした。あのしめった潮のにおいをかぐと、どこにいても故郷の鎌倉、由比ガ浜を思います。

においが脳に刻んだ懐かしい思い出を考えると何となくノスタルジックな気持ちになります。

想像力と創造力 #3

「忙しいから、」となんでも便利さを選びがちの毎日。それは楽ではあるけれど、ありがたみが感じられない事も。たまに時間と労力をかけてプロセスを楽しむ事を意識すると、食べる事一つにしても、日常的に使うものであっても、そのもの自体の価値だけでなく、それに出会うまでのプロセスが自分の財産になります。

例えばここ最近手紙を書いた事も受け取った事もない人も少なくないはず。メールで連絡するのは簡単だけど、もし誰かから手紙を受け取ったら、メールで同じメッセージを受け取るより嬉しくはないでしょうか?それは多分、相手が時間をかけて便せんやはがきを選び、手書きで思いを綴り、切手を貼って郵便局に行く、、、手間をかけ自分の事を思ってくれたという事が無意識のうちに理解できるから。スーパーで買った沢庵よりおばあちゃんがつけてくれたものの方がおいしいのも同じかも。

友人の男の子で、一ヶ月ハワイにサーフィン修行で滞在していた時、何年も片思いをしていた女性に海から上がってから毎日貝拾いをしてその貝をお土産に送ったところ、恋が実りゴールインした人がいます。毎日毎日自分の事を思いながら拾ってくれた、そのプロセスが彼女の心を動かしたのでしょう。

個人的には最近近くの山に自生しているコーヒーの豆を摘み、自分用のコーヒーを作っています。豆を摘み、種を取り、発酵させてぬめりを取ってから乾かし、今度は殻を剥いて甘皮をむき、それからその豆をフライパンで焙煎する。それだけのプロセスをするには大変な労力と時間がかかるので買った方がずっと楽なのですが、それでも自分で作ったコーヒーは格別です。あまりに特別すぎて飲むのがもったいないほど(笑)でもそんなプロセス自体が楽しいのです。

これからは物でなく心を動かす時代。たくさんのものを手に入れる。ではなく、上質なものを少しだけ、末永く心を込めて大切にする時代のような気がします。

ふと目にした美しい景色で思い出す友人に手紙を書いたり、大好きな料理をお店で買わずに一から自分で作ってみたり、なにかひとつ結果でなくプロセスにこだわって行動に移してみませんか?

宝物を見つける目線と気持ち #2

日本全国、そして世界各地の海を旅している私は波に乗ったり、風を使って大海原を走る爽快感も好きだけれど、その場所独特の雰囲気を味わいながらただビーチを歩くのも同じくらい好き。思いがけないものが拾えたりするのでついつい背中を丸めて下ばかり見て歩いてしまいがち。そしてふと頭を上げると真っ赤な大きな夕陽が海に落ちようとしてるところだったり、通り雨とともに空に虹がかかっていたりしてさらに天からの贈り物をいただける。

下を見たり上を見たり、小さなものを探したり、壮大な景色に心を奪われたり、あわただしいけれどリラックスし、心が安らかになる最高の時間でもある。

よく二つ袋を持ってビーチに行く。一つにはゴミ、もう一つには自分が気に入ったものを入れるため、そんな風にして集めた数々の拾い物は見る人によってはただのゴミにしか見えないかもしれない。でも見方を変えると自分の目で選んだかわいらしいものばかりで、それを材料に作り上げた作品はさらに魂が込められ、世界に一つしかない宝物となる。見方を考え方を変えるだけでその良さが見えてくることも多い。

日常にも同じようなことがたくさんあるような気がする。辛いこと、恥ずかしいと思っていた出来事が見方を変えると実はとっても自分にとって大事な出来事だったり、苦手だと思っていた人がふと思いがけない一面を見せてくれてお互いの理解が深まったり、自分の欠点だと思っていたところが実は自分の個性で上手く使えば長所になることがわかったり。そんなことを考えながら海を歩いているとそれこそ目につくものどれもこれも大切な宝物になりそうで拾いたくなってしまうから面白い。

海からの贈りもの #1

つい最近四国に出かけた時、友人の家の裏の岩場を降りて海に出ました。
そこから少し先の湾までスタンドアップパドルという立って漕ぐサーブボードに乗って
一寸法師のように移動していったのですが、降りた岩場は友人の家族以外誰も来ない小さな
入り江。

流れ着いた浮や流木がたくさん!そして入り江の玉砂利と砂の間をよく見ると
これがまた見たこともないような鮮やかな色の貝やビーチグラスがたくさんたくさん
ありました。秘密の宝のありかを見つけた!という気分でした。
時間もなく袋も持っていなかったのでとにかく目についたものをこぼれないように着ていた
ウエットスーツの中に放り込ンで戻ってきました。

高知には本州でよく見かける貝と南国で見る貝の両方がありました。
北からの海流と南国からの海流が交わる場所だからでしょう。
だから魚も美味しいのかな?